清輝楼日記:丹後半島宮津/天橋立の文人墨客の宿
京都府北部丹後半島・宮津/天橋立の老舗旅館清輝楼主人の徒然日記。元禄年間創業の宿は「小さなちいさな美術館」として文人墨客の作品を多数展示。歴史・まち歩き情報など丹後宮津/天橋立の魅力を紹介!
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国宝 海部氏系図 公開!
今、丹後郷土資料館(清輝楼から車で15分)にて「籠神社の至宝」展を開催中です。4/21~5/31 9時~4時30分まで

なかでも是非見て頂きたいのが、国宝「海部氏系図」(5/20までは本物、~5/31は複製)、「息津鏡(おきつかがみ)」、「辺津鏡(へつかがみ)」(5/13~5/17)です。

国宝海部氏系図は端的にまとめますと、

①日本最古の系図である。

②本系図には海部(あまべ)氏(籠神社の宮司家)の始祖 彦火明命(ひこほあかりのみこと)から直系の子孫のみ記載されている。

③その本系図には「丹後国印」が押されており、この系図の正統性を丹後国庁を通じて大和朝廷が公認していたという歴史的事実。

④彦火明命(ひこほあかりのみこと)はニニギノミコトと、古事記では兄弟、日本書紀では親子とされており、天照大神→アメノオシホミミノミコト→ニニギノミコト→その三世孫が神武天皇である。つまり海部氏は天皇家と親戚となるという事実。

⑤勘注系図(本系図の解説をした系図)には様々な古代秘史が掲載されており、天孫降臨の「丹波降臨説」が明記されている。

⑥戦前までは心ない世間の圧力をおそれ、宮司家に長らく秘伝されていたものを、決意されて公開するやいなや即時に国宝に指定された。

また息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)については

①考古学的に地中から発掘されたものではなく、籠神社に代々伝わってきたもの。人伝えは大変珍しく貴重。

②古代鏡の権威 樋口隆康氏の鑑定では中国製で前漢時代(弥生時代中期 約2000年前)のもの。

③前述の勘注系図には「天祖(あまつみおや)のみしるしであるご神宝で、息津鏡、辺津鏡」という名前がしっかり記載されている。

④また古事記の応神天皇の段にも「息津鏡、辺津鏡」のことが記されている、大変由緒のある鏡。

このように書きだせばどんどん長くなってしまいますが、何十年に一度しか見られない大変貴重なものなので、是非ご覧下さい。

今回の特別展は籠神社 神幸2500年紀の記念事業で、5/16(土)には記念式典や浅野温子さんによる神話の語り舞台が催されます。


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信長の命日
昨日6月2日は何の日か知っていますか?
織田信長の命日ですね。ということは明智光秀が決起したいわゆる本能寺の変が起きた日ということになります。光秀の娘「たま」は当時宮津領主だった細川忠興に嫁いでいました。宮津の近くにある福知山の領主が明智光秀だったのです。光秀は宮津の細川親子(幽斎・忠興)が自分の味方をしてくれるものと思いましたが、実際は細川親子は剃髪し信長に弔意を表したのでした。ですから謀反人、光秀の娘「たま」を味土野(みどの)という丹後半島の山奥に幽閉すべく、宮津城から舟で出発したのが現在の大手川付近と言われています。幼い子供と離ればなれになってしまう悲しい情景が今でも伝わっています。後にキリスト教の洗礼を受けて「細川ガラシャ夫人」と言われる「たま」の悲劇のはじまりの場面でした。

ところでこの本能寺の変ですが、いろいろ研究者が興味深いことを論じています。先年清輝楼に投宿した文人のお話だと、本能寺の変の首謀者は実は豊臣秀吉で、わざと光秀に本能寺を襲わせ信長を殺害した後は、光秀を僧にかえてかくまったというのです。そうでなければ大人数の兵が突然大移動する「中国大返し」などはできないと言うのです。ですから秀吉が天下を取るための策略が本能寺の変だと、その文人は力説されていました。表に出ない歴史の話はいろいろありますね。
宮津祭
今年も宮津の春の風物詩 宮津祭の季節がやってきました。5月14日、15日です。15日は本日(ほんび)で14日が宵宮、13日は町内曳きといって宵々宮のような位置づけでしょうか。
本来江戸時代初期の頃は、山王宮日吉神社の祭礼、山王祭(4月の二の申の日)が「国祭」と称され宮津城下最大のお祭りだったそうです。そのころの様子が佐藤正持の手による巻物によって現在も伝えられていますが、その祭礼の最も大きな特徴は祭礼行列が城内へ入り、藩主がこれを見物する点にあるようです。各地区から「山」「鉾」「神楽」「太鼓」「神輿」などがだされ、それはそれはにぎやかな様子が佐藤正持の絵から読み取れます。
文政十二年(1829)に同じ城下町にある分宮の祭礼(9月11日)に神輿を出すことが認められます。それ以降新暦になった後も、春の山王祭と秋の分宮祭礼と宮津では2回お祭りがあったのですが、戦後統一され、5月15日には二つの神社からそれぞれ御神輿・神楽・太鼓がでるという町中が祭でうめつくされる、大変賑やかな日となりました。
5月13日浮き太鼓
最初の写真は今年和貴宮神社の浮き太鼓当番である新浜地区の「浮き太鼓」です。五つの地区が神輿と神楽と浮き太鼓を順番に奉仕していきます。小さなお子さんも太鼓を打つ練習をしてがんばってこのお祭りに臨みます。かわいいですね。
5月13日浮き太鼓2
そのお子さんのためにおじいさんやおばあさんから名前入りの提灯が送られ、屋台に飾られます。
5月13日神楽2

5月13日神楽
今年の神楽当番である本町の神楽です。五つの地区それぞれに特色ある神楽が披露されます。
5月13日神輿
和貴宮神社の大神輿です。私は明日これを担ぐ当番になっていますので、がんばって参加しますが、かなり重たいのは言わずもがなです。。。宮津祭の見所として5月14日・15日は神楽・浮き太鼓が宮津の町中の300軒ほどの家々を回りお清めします。和貴宮神社の大神輿は5月15日12時に出発し、町中を練り歩き、19時頃から、神楽を先頭に宮入をして、クライマックスを迎えます。御神輿宮入後は神楽の奉納、浮き太鼓の披露と全て終わるのは23時頃?でしょうか。
一方山王宮日吉神社の方は11時頃に神社を出発し、町中を練り歩き、同じく19時頃に神楽から宮入します。どちらの宮入も見る人を感動させる素晴らしいもので、是非見に来ていただきたいと思います。
私は明日、御神輿を担いでいますのでブログは書けませんが、終わって足腰を通常に戻ったらまた感想など載せたいと思います。
三上家住宅で端午の節句、武者絵展示
清輝楼から歩いて5分のところにある三上家住宅(重要文化財、宮津でおすすめの観光スポット)では端午の節句にちなんで、佐藤正持が描いた「武者絵」を展示しています。

一つめは「武者図 一幅」三上家が特別に描いてもらったもので、白馬にまたがり大鎧に身を固めた若武者を中心に14人の郎党が従う、群像図です。
二つめは「三忠臣図 三幅対」忠臣は誰かというと、後醍醐天皇を最期までお守りした楠木正成親子、源義家、大石内蔵助です。大石内蔵助は忠臣蔵で有名ですが、源義家はいわゆる源氏の基礎を固めた人で後三年の役(1086)の折、家臣を励ますために座席を剛気の者と臆病の者に二分したことで有名ですね。いわゆる武の神様的な存在の御三方にあやかるという願いなのでしょうね。

作者の佐藤正持の話をしたいですが、それはまた別の機会にしましょう。

重要文化財 旧三上家住宅にて5月3日~6日まで午前9時~5時(入館は4時30分まで)入館料350円です。

清輝楼から徒歩5分かレンタサイクルでどうぞ!